最近ではすっかりと炎上系タレントになってしまったデヴィ夫人。
実は、80歳を超えた現在も虫歯が0という尊敬できる部分を多く持つお嬢様であります。
そんなデヴィ夫人についてコンスタントに話題になるのが、
”若い頃の美しさ”と”スカルノ大統領に出会う前”のことです。
そして、大統領との結婚生活の中で生まれた娘、その後に誕生した孫、大統領の資産の行方なども注目されています。
今日はデヴィ夫人の昔の姿を年齢順に追うのと、娘や孫、資産などについて書いてみたいと思います。
デヴィ夫人の若い頃(年齢順にまとめ)。本名はハーフではない!
1940年2月6日 | 0歳 | 東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布)に生まれる。 |
1946年 | 6歳 | 港区立笄(こうがい)小学校入学。 |
1952年 | 13歳 | 港区立高陵中学校入学。成績優秀で英語は学年で一番の成績。 |
1955年 | 15歳 | 東京都立三田高校定時制進学。家計を助けるために千代田生命保険(現在のジブラルタ保険)に務める。新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(白黒映画)にエキストラ出演。 |
1956年 | 16歳 | 父死去。高校中退。赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働く。 |
1959年 | 19歳 |
開発援助に伴いインドネシアに渡り、東日貿易の秘書としてインドネシア建国の父であるスカルノ初代大統領の元に就く。最初は普通の恋仲関係。 |
1962年 | 22歳 | スカルノ初代大統領と正式に結婚。(4人の夫人のうちの第3夫人)。母親がマスコミの取材をストレスに死去。実弟が自殺。 |
1965年 | 25歳 | 軍事クーデターでスカルノ大統領失脚。 |
1967年 | 27歳 | 第一子の娘・カリナを出産(スカルノにとって8番目の子供)。デヴィはフランスに亡命。 |
1970年 | 30歳 | スカルノ死去。遺産の相続は不明であったが、その後に第三夫人として財産分与されたとされる。 |
1974年 | 34歳 | 『GORO』の創刊記念号で、写真家・デイヴィッド・ハミルトンの撮影によるヌード写真を披露。 |
1980年 | 40歳 | インドネシアへ戻り、石油関連事業を興した。 |
1991年 | 51歳 | アメリカ・ニューヨークに移住。 |
1992年 | 52歳 | コロラド州でセルヒオ・オスメニャ第4代フィリピン大統領の孫娘・ミニー・オスメニャに侮辱されたと激怒したデヴィがシャンパングラスでミニーの顔面を殴打し、“顔に37針を縫う大ケガ”を負わせ、傷害罪で逮捕。禁固60日・罰金700ドルの実刑判決、34日間刑務所に収監された。 |
デヴィ夫人はハーフではない!貧しい家庭出身で母の内職を手伝った子供時代
本名 | ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(旧姓:根本 七保子) |
生年月日 | 1940年2月6日 |
出身地 | 東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布) |
家族構成 | 父(兵七郎)・母(政子)・弟(4人家族) |
デヴィ夫人はインドネシアの大統領夫人ということで、育ちが良いと思われることが多いです。
確かに人格者の両親に恵まれていましたが、経済的には良いとは言えない家庭でありました。
また、エキゾチックな外見からハーフだと思われがちですが、実は父も母も日本人でデヴィ夫人自身も純日本人であります。
デヴィ夫人が生まれた年は、戦前である1940年2月6日です。
家族構成は両親と弟1人の4人家族でありました。
父は大工さんでありましたが、ある時に目の病気を患ってしまった為、仕事に支障が出てしまったそうです。
母も足が悪く、内職などの仕事をするしかなったのですが、デヴィ夫人はそんな母の内職を手伝っていたそうです。
当時、小さかったデヴィ夫人が摘んできた野草が食卓に並んだこともあり、家に入った鳩を捕まえて一家で丸焼きにして食べたこともあったそうです。
小さい頃から絵が上手く、周囲からは”天才”だと呼ばれており、本人も将来は画家になりたいと思っていたそうです。
母はデヴィの夢に協力してあげたいと思い、内職で稼いだお金で月謝を払い、東京芸術大学の先生に絵を習わせていたそうです。
デヴィ夫人の10代。中学・高校時代から大人の男にモテる美しさ
デヴィ夫人の若い頃の美しさは度々話題になります。
昔の写真を見る中で、最も衝撃的なのは学生時代の写真です。
中学生時代の写真を見てる限り、とても大人びて際立っており、とても普通の子供には見えません。
後に高校を中退し、最終学歴は中卒になってしまいますが、当時から成績は優れ、特に英語は学年で一番だったそうです。
中学生の頃から男性の先生たちに可愛がられていたそうで、当時から大人の権威ある男性に愛される素質を持っていたということです。
デヴィ夫人は仕事をしながら定時制高校に進学。15歳にして映画出演も
デヴィ夫人は家庭が貧しかったということで、中学生の頃から卒業したら働いて母を助けたいと思っていたそうです。
高校は全日制ではなく定時制に進学し、15歳ながらも千代田生命保険(現在のジブラルタ保険)に就職しました。
高校生時代の写真を見てる、ほぼ大人のような色気あるオーラがあります。
就職して働いただけでなく、「東芸プロダクション」に研究生として入団し演技や舞踊などを習い始めると、15歳にして新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(白黒映画)にエキストラ出演も果たしています。
また、保険の休憩時間は喫茶店でアルバイト、土日はコーヒーショップに務めるなど寝る間も惜しんで勉強と仕事に励み、家族一団となって幸せを目指していました。
しかし、16歳になった頃に父親が死去。
その後は高校を中退しナイトクラブに務めることになります。
デヴィ夫人の若い頃の軌跡。夜のお店から秘書→大統領夫人
1957年の17歳、アメリカ人宝石商のジェイムズ・ベイカーさんと知り合うと、色々なところに連れて行ってもらうようになり、赤坂にある有名高級クラブ「コパカバーナ」に出入りするようになると、オーナーだった長尾久子さんに気に入られ、「コパカバーナ」で働くことになります。
赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働くと、持ち前の美貌を生かし、すぐに売れっ子ホステスになりました。
お店ではプリンセスと呼ばれ、看板的存在を担っていたそうです。
デヴィ夫人は当時のことをこう振り返っています↓
お客さんの90%が外国人。世界の社交場のような名声を得ていて、当時の大学新卒の給与が1万ぐらいだった時代に、その時のテーブルチャージは、フランク・シナトラが歌った夜は1人10万円。
どのぐらい豪華なクラブだったかお分かりかしら。
新聞の朝刊に米上院議員のテッド・ケネディ氏が来日したとあると、その夜には彼の姿がそこにあるぐらいの世界の社交場。ここで働く女性はファッション誌から抜け出したような人たちばかり。
そして、ここへ遊びにいらっしゃる紳士たちは女性の椅子を引き、飲み物をオーダー、ダンスをする時は手を差しのべる、すべてがレディーファースト。わたくしは美しい花、そう「レディ」に憧れを抱いておりました。
実はデヴィ夫人がクラブに勤めたのは、お金のだけでなく、学生時代から得意だった英語力を伸ばす目的もあったそうです。
当時からデヴィ夫人は海外進出を狙っており、結果としてお店で磨いた英語力で、後の大統領夫人の地位を手に入れたのです。
ちなみに若くして歯を入れ替えていたことから”コールガールをしていたのでは?”と噂がありますが、デヴィ夫人は歯を入れ替えた理由に”見栄えが良いから”とだけ答えています。
デヴィ夫人は秘書としてスカルノ大統領に仕え結婚し第3夫人になる
国際的な高級クラブで売れっ子ホステスとして活躍された若き日のデヴィ夫人。
当時から国際的に活躍することを望んでいましたが、その目論見通り、1959年の19歳の頃に開発援助に伴いインドネシアに渡ることとなります。
デヴィ夫人は東日貿易の秘書としてインドネシア建国の父であるスカルノ初代大統領の元に就きます。
スカルノ大統領の側近に付くと、スカルノ大統領はデヴィ夫人の美しさや心配りに惹かれ、二人はすぐに恋仲になります。
そして秘書になって3年後の1962年に、デヴィ夫人とスカルノ大統領は正式に結婚します。デヴィ夫人は第三夫人となります。
プロポーズはジャカルタからバリに移動中の飛行機の中で、夕焼けが沈むのを二人で眺めていたときに「私のインスピレーションとなり、力の根源となって、私の人生の喜びとなってください。」と言われたそうです。
幸せの絶頂だと思われましたが、日本のメディアはデヴィ夫人を好奇の目で見て、実家の母を追い、病に追い詰められ死去してしまいます。また、弟もガス自殺をしてしまいます。
幸せと不幸が一斉に来たということです。
ちなみにスカルノ大統領は結婚した3年後の1965年に、国内の軍事クーデターにより失脚してしまいます。
デヴィ夫人の娘・カリナと孫・キラン。大統領死後の資産の行方は?
デヴィ夫人はスカルノ大統領が失脚した1965年から2年後の1967年に第一子の娘を産みます。
娘の名前は「カリナ・サリ・デヴィ・スカルノ」です。
デヴィ夫人は日本で娘を出産した後、フランスに亡命します。
スカルノ大統領はカリナさんが誕生した5年後の1970年に死去します。
亡くなった理由に関しては病気の説と暗殺の説がありますが、どれが事実かは分かりません。
娘のカリナさんは、ニューヨークにある「ヴィヴィアン・ウェストウッド」に勤め、2005年には大手金融機関「シティバンク」の欧州・中近東・アフリカ地区CEO(最高経営責任者)である、オランダ人のフレデリック・F・シーガスさんと結婚しています。
母と娘揃って玉の輿に乗れたということになります。
娘・カリナは2007年に孫のキラン(Kiran)くんを出産し、デヴィ夫人はおばあちゃんとなりました。
デヴィ夫人のブログでは度々キラン君が登場します。
ロンドンで生後1か月のキラン君と出会った時、「目が赤ちゃんではなかった。まるでイエス・キリストの目のようだった。」と感激を受けてました。
孫のキランくんは以前にメディアに出演し”イケメン”だとチヤホヤされていました。
キランくんは英語、インドネシア語、ラテン語、日本語、オランダ語、フランス語の合計6か国語話すことができ、語学力に長けてる意味ではデヴィ夫人にそっくりですね!
デヴィ夫人は娘・カリナと不仲?遺産関係の相続
実は以前からデヴィ夫人と娘のカリナさんには不仲説が囁かれていました。
デヴィ夫人はカリナさんが11歳の時に、カリナさんをパリに残し単身インドネシアに戻っており、カリナさんは”自分が見捨てられた”と、未だに憎んでるいるとの説です。
しかし、実際はデヴィ夫人は、カリナさんを上流階級で育てるため、スカルノ元大統領の遺産を分けてもらうためにインドネシアに移り住んだのです。
パリにカリナさんを残したのは、情勢が不安定なインドネシアに娘を連れて行くことが出来なかっただけだそうです。
ちなみにデヴィ夫人はスカルノ元大統領が亡くなった後に貰った遺産で、インドネシアで石油事業を手掛け、毎年数億単位で銀行口座に振り込まれているそうです。
現在のデヴィ夫人の総資産は60億円以上あるのではないかと言われており、東京都渋谷にある自宅は11億円以上、パリの別荘とニューヨークの不動産を合わせて30億円は最低でもあるとされています。
大統領の遺産だけでなく、デヴ夫人個人のタレント業の努力も、財産に多く含まれているそうです。