タモリさんといえば、「ミュージックステーション」や「たもり倶楽部」など、多くの人気番組を従える司会者です。
過去「笑っていいとも!」は長年お昼の定番番組として人気と、最終回にはダウンタウンさんと”とんえるず”さんが共演するなど話題を集めました。
そんなタモリさんも歳を重ね、少しずつお爺さんになってきました。
遅咲きだと言われているタモリさんは、業界的にはかなりの異色の経歴を持っている方です。
今日はタモリさんの若い頃からテレビ業界に入るまでの経歴と、実際の年齢、そして多くの方が興味を持つトレードマークのサングラスの向こう側について買いてみたいと思います。
タモリの若い頃。年齢ごとの経歴年表
1945年:誕生
1954年(”9歳”小学3年生):右目にワイヤーが刺さり失明
1965年(19歳):1年の浪人を経て早稲田大学第二文学部入学
1967年(22歳):仕送の学費を旅行に使い切り滞納し早稲田大を除籍
1970年(25歳):勤めていた保険会社の年上女性と結婚
1975年(30歳):芸能界デビュー
1982年(37歳):「笑っていいとも!」スタート
1986年(41歳):「ミュージックステーション」スタート
2002年(57歳):『笑っていいとも!』が放送5,000回を達成。「生放送単独司会世界最高記録」としてギネスブックに登録。
2008年(63歳):「ブラックタモリ」スタート
2014年(69歳):「笑っていいとも!」終了。『生放送バラエティー番組 単独司会最多記録』として、ギネス記録に認定
タモリの学歴・身長・生年月日
芸名 | タモリ |
本名 | 森田一義(もりたかずよし) |
生年月日 | 1945年8月22日 |
出身地 | 福岡県福岡市南区 |
身長 |
161センチ |
血液型 | O型 |
家族 | 両親とタモリと姉 |
出身小学校 | 福岡市立西高宮小学校 |
出身中学校 | 福岡市立高宮中学校 |
出身高校 | 福岡県立筑紫丘高等学校(偏差値72) |
出身大学 | 早稲田大学第二文学部(除籍) |
以前の仕事 | 保険の外交員。ボーリング場の支配人。喫茶店のマスター。旅行会社。 |
タモリさんは遅咲き。芸能人になる前には多くの職業を経験
芸能界のデビューは1976年4月、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の深夜番組「空飛ぶモンティパイソン」です。
デビューは30歳という遅い年齢でした。
芸能人になる前のタモリさんは、保険屋で仕事をしたり、系列のボーリング場で支配人をしたり、喫茶店のマスターをしたり、多くの職を転々としました。
タモリさんよりも1歳年上のベテラン司会者のみのもんたさんも、10年ほどの社会人経験があったので、現代もテレビで活躍しているベテラン司会者の多くがサラリーマンも経験しているということです。
ちなみに能界入りのきっかけは当時福岡で生活しつつ、月1で上京して素人芸人として即興芸をしていたタモリさんを、”面白いやつがいる”と噂をききつけた赤塚不二夫が自らの番組に出演させたことがきっかけであります。
赤塚不二夫氏の告別式における、タモリさんの伝説の弔辞
30歳のタモリさんに芸能界でデビューするチャンスを与えたのが赤塚不二夫さんです。
2008年に赤塚不二夫さんが病で死去すると、タモリさんは赤塚不二夫さんの告別式で伝説の弔辞をします。
何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていた時に、あなたは突然私の眼前に現れました。
その時のことは今でもはっきり覚えています。
赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。
この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。終わって私のところにやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。
8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。
それまでは住むところがないから、私のマンションにいろ」と、こう言いました。
自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。
それにも度肝を抜かれました。
それから長い付き合いが始まりました。
しばらくは毎日新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。
いろんなことを語ってくれました。
お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。
他のこともいろいろとあなたに学びました。
あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。
そして仕事に生かしております。
タモリさんの人生を変えた人、赤塚さんいなければ今のタモリさんはいないということです。
タモリの複雑な家庭。幼少から学生時代まで個性的!
タモリさんが誕生したのは1945年の8月と、戦後間もない時期でした。
家族は両親に姉が一人だけでした。
かなり変わった家族体系で、子供のいなかった祖父母から、それぞれの親戚(祖母は弟、祖父は姪)で結婚させて生まれたのがタモリさんと姉さん。
幼少に時に両親は離婚し、タモリさんと姉は祖父母に育てられてました。尚、父は大学生の頃に亡くなり、母は2度の離婚を経験したそうです。
タモリさん本人曰く、幼少期が人生で最も大人っぽかったそうで、幼稚園に入る時期に近所の幼稚園を外から見学すると、子供騙しのような歌や振り付けの遊びを見て”幼稚園に行きたくない”と拒否したそうです。
タモリは浪人して早稲田大学第二文学部に合格。学費滞納で除籍扱い
子供の頃から個性的でありましたが、勉強は頑張った方で、高校は県内の名門・福岡県立筑紫丘高校、そして浪人を経て早稲田大学第二文学部に進学されます。
子供の頃から祖父母の教えて男ながら料理に興味を持ち、高校では陸上部と剣道部に所属したり、居合道で2級を獲得したり、無線クラブで活動したり、視野の広い青春を送っていました。
大学ではモダンジャズの研究会に所属し、この頃に本名の”森田”をもじった”タモリ”というあだ名が付けられてました。
ちなみに苦労して入学した早稲田大学ですが、タモリさんは学費として仕送りされたお金を旅行や遠征の費用に使ってしまい、学費未納で除籍となってしまいます。
タモリがサングラスを掛けてる理由は子供時代の失明。若い頃は素顔の目を出していた
タモリさんといえば、サングラスがトレードマークであります。
近年では出演する番組では必ずと言って良いほど、必ず黒のサングラスを着用してます。
タモリさんは30代のデビュー当時からサングラスを着用していました。
多くの人が、”なんでタモリさんっていつもサングラスしてるの?”と疑問に思うことでしょう。
実はタモリさんは小学3年生のとき、下校途中に電柱のワイヤに顔をぶつけ、針金の結び目が右目に突き刺さって失明してしまったのです。
直後2ヶ月休学して治療したものの、視力は戻らなかったそうで、現在も失明しており義眼であります。
タモリは若い頃はサングラス以外に眼帯も。素顔でテレビ出演したこともある
デビュー当時からサングラスをトレードマークにしていたタモリさんですが、当時はサングラスの他にも眼帯を付けることもありました。
また、素顔でテレビに出演したいたこともあります!
現在でも、私生活ではサングラスを外すこともあるそうです。
ちなみにデビューして間もない時期に、芸能界の先輩である堺正章さんにサングラスを怒られたこともあったそうです。
タレント・堺正章が15日、日本テレビ系で放送された「ダウンタウンDX」に出演。デビュー前のタモリに説教をしていたことを告白した。
1975年に博多から上京したタモリ。堺は放送作家から「面白い芸をするヤツがいるから。(ネタを)見てよ」と言われて、タモリと初対面。ものまねネタを見たという。
堺はタモリの芸に全くピンとこず、「九州帰った方がいいんじゃないか」と本気でダメ出し。さらに、後にトレードマークとなったサングラス姿のまま“ネタ見せ”をしたため、ムッとして
「先輩の前で芸やる時、サングラスぐらい取れよ!」と説教したという。
その後にタモリさんがサングラスを付けている理由を聞いて、納得したようです。
小学生の頃に失明し落ち込んだが卒業式では漫才を披露
失明した当初はとても落ち込んだらしいのですが、すぐに明るい性格になれたそうです。
過去に週刊誌「FLASH」に、タモリさんが失明してしまった経緯が細かく書かれていました。
1945年8月22日、タモリは福岡の高級住宅地、石垣に囲まれた大邸宅で生まれた。両親は小学生のころに離婚、叔父が父親代わりとなって育てた。 内気で一人遊びばかりしていたタモリ少年だったが、小学4年生の遠足でアクシデントに見舞われる。級友と遊んでいたところ、電柱のワイヤが右目に突き刺さり、失明してしまう。塞ぎ込んでしまう時期もあったが、やがて人を笑わせることに興味を持ち、小学校の卒業式では漫才を披露していたという。
失明をしても、全クラスの友達の前で漫才を披露できるぐらいになれるということです。
何か事故で視力を失ってしまったという方には、タモリさんの存在は大きな励みになっていることでしょう。