吉永小百合さんといえば、昭和から令和までに活躍された大女優さん。
業界人にもファンは多く、タモリさんのようなタレントさん、映画監督などクリエイターにリスペクトされる偉大な女性です。
いくつになっても美しい吉永小百合さんですが、若い頃の可愛らしさ、美しさは圧倒的です。
吉永小百合さんの若い頃から現在までの美しさを年齢順に書いてみたいと思います。
又、結婚した旦那の岡田太郎さん、子供、過去に熱愛の噂があった渡哲也さんとの関係についても書いてみたいと思います。
吉永小百合の若い頃の美しさは圧倒的!昔の可愛さを年齢順にまとめ(カラー写真)
芸名 | 吉永小百合 |
本名 | 岡田小百合 |
生年月日 | 1945年3月13日 |
出身地 | 東京都渋谷区 |
血液型 | O型 |
身長 | 155センチ |
既婚・夫 | 1973年結婚。旦那は岡田太郎 |
職業 | 女優・歌手 |
芸能界にも多くの男性ファンを抱える女優の吉永小百合さん。
古くから、吉永小百合さんのことを愛する人のことを”サユリスト”と呼んでおり、芸能人ではタモリさん・綾小路きみまろさん・野坂昭如さん・内藤陳さん・プロ野球選手の小宮山悟さんも自身がアユリストであることを認めています。
若い頃からの吉永小百合さんの女優としての特徴は”純粋なお嬢さん”を演じることです。
多くの女優が、売れてくると大胆な女性を演じて役の幅を広げようとしますが、吉永小百合さんは自分の売りである清楚さを崩さずキープし、磨き続けたのです。
可愛らしさ、美しさ、透明感は圧倒的で、吉永小百合さんの人気はカリスマ的となっていたのです。
昭和の吉永小百合さんを知るおじさん達からすると、現在に”清純派女優”と呼ばれる若手女優を作品で観ても、若い頃の吉永さんの作品を思い出すと物足りなく感じることでしょう。
吉永小百合の子供時代。エリート家系だが戦後貧しい幼少期
吉永小百合さんが生まれたのは1945年の3月13日と、戦争が終わる直前でした。
東京出身ということで、赤ちゃんの頃は東京大空襲を経験しています。
”小百合”の名前の由来は、作家になりたかった母・和枝さんが、小百合さんのために作った短歌、
「戦いのさなかに生(あ)れて小百合の崇き気負いを持ちて生き抜け」(戦争の中で生まれたけれど、ユリの花のように誇り高く生きていってほしい)
から由来されています。
1歳の時点で目がぱっちりしていて、後の絶世の美女になる面影があります。
反戦の想いが強く、自身が0歳の頃に起きた沖縄戦を扱った映画『あゝひめゆりの塔』の共演者らと共にもんぺ姿で靖国神社に参拝したこともありました。
家族は両親と三姉妹で吉永さんは真ん中の次女だったそうです。
父親 | 吉永芳之(享年79歳)。東大法学部卒のエリート。 |
母親 | 吉永和枝(享年90歳)。ピアノの教師。祖父・川田友之は出版社「大観社」を経営。祖母・川田泰代は婦人画報の編集長。 |
長女(5歳上) | 名前不明。東京教育大学(現・筑波大学)→都庁→児童心理カウンセリングの世界で女性管理職 |
次女 | 吉永小百合。歌手で女優。 |
三女(2歳下) | 名前不明。東京芸術大学を卒業。小学校の先生。 |
後に”次女に美人が多い”というのは、吉永さんから始まったジンクスだと言われています。
父の父の吉永芳之さんは薩摩士族の末裔として生まれたので、子供の頃は裕福に暮らしたと思われていますが、父は映画ファン雑誌「シネ・ロマンス」を刊行するも、事業に失敗し小学校の時は借金取りが押し寄せたこともあったそう。
貧しい両親を見た吉永さんは「私、新聞配達をする」と言い、親に止められたこともありました。
税務署から家財道具などを差し押さえられた際には、ハタキを手に立ち向かったそうです。
見た目だけでなく、心も綺麗な少女だったということです。
吉永さんが渋谷区立西原小学校6年生の時にラジオ東京(現 TBSラジオ)の連続ラジオドラマ『赤胴鈴之助』でデビューを飾ると、家族の暮らしは助かったそうです。
(一番左が吉永さん)
しのぶ役の藤田弓子さんはオーディションでの吉永小百合さんを見て、
(オーディションの)最終審査に行ったら、女の子が一人いて、それが吉永小百合ちゃんだったの。もうめちゃめちゃキレイで可愛くてね。
母と2人で「1人しか選ばないんだから、これはもうダメね。帰りましょう」って帰ろうとしたらラジオの人が飛び出してきて「弓子ちゃん、これはラジオですよ。ラジオ」って言って止められたの。ラジオだと顔が見えないからね(笑)
小百合ちゃんは何て言ったって天下の美少女で、私ははっきりしゃべったのとマイクに乗る声だったんでしょうね。2人とも受かったんですよ。
女の子も男の子も2人ずつ合格して役も増やして、その4人を主役にして3年間、月曜日から金曜日まで毎日夕方放送の連続ドラマ。土曜日に学校が終わってからラジオ局に行って収録。夜は母が迎えに来てくれました。
と、当時からの吉永さんの美少女ぶりについて言及されています。
吉永小百合の10代。高校時代から売れっ子女優の仲間入り!
高校生になると、1962年(昭和37年) に『キューポラのある街』(浦山桐郎監督)で主演を飾ります。
15歳頃の吉永小百合さんです。当時は”この美少女は誰だ?”と大ブームになりました。
また、同年の主演映画『赤い蕾と白い花』の主題歌『寒い朝』シングルをリリースし歌手デビュー。
レコードは20万枚のヒットを記録しました。
10代で国民的女優であり、歌手になった吉永小百合さん。
外見の美しさだけでなく、しっかりと実力もあったことから、当時から将来は大物女優になると期待されていました。
吉永小百合の20代。国民的スターとして誰もが憧れる存在に
吉永小百合さんの美しさ、可愛らしさの全盛期を語る上で、20代派と30代派が存在します。
20代ではヒットを記録した映画に多く出演していたことから、記録として20代の圧倒的な吉永さんのイメージがおじさん達には根付いてるようです。
まるで海外の女性のように整った目鼻。
当時は多くの女性が吉永さんのメイクを真似しました。
あくまで清楚派の役柄が多かったので、あどけない姿が多かったですが、本気で大人の女性を装えば色気は一級品でした。
1973年の28歳の頃に結婚をすると、母さん役など女優としての幅を広げ、30代にかけて更なる魅力が増しました。
吉永さん本来の美しさに加えて、役に向かって表情や仕草を変えられる器用さがあり、その役の女性の美しさをしっかりと表現し続けました。
吉永小百合の30代。信じられない色気と品格。日本女性の最高潮?
10代、20代と愛嬌のあった吉永さんですが、30代の品格は別格です。
人によっては30代の頃の吉永小百合さんが全盛期だと語る人もいるぐらいです。
当時、30代に入った女性は”おばさん”と言われる風潮がありましたが、その流れに負けじと20代の頃を増す美しさを発揮し、世間を圧倒させました。
1980年の35歳の頃には高倉健さんと共演した映画「動乱」で、今までにない新境地に辿り着きました。
日本女性の年齢突破、美しさの永続性、歳を重ねた大和女性の価値を高めた功労人ともいえます。
吉永小百合の夫・岡田太郎。馴れ初めと結婚。子供と家族の現在
吉永小百合さんは1973年の28歳の頃に15歳年上で元フジテレビのディレクターとして活躍していた岡田太郎(おかだ・たろう)さんと結婚しました。
当時にして女優として全盛期だったということで、日本中の男性が悲鳴を上げました。
二人の出会いは1971年頃です。
渡哲也さんとの破局で傷ついた吉永小百合さんは、心のストレスで声が出なくなってしまったそうです。
そんな大変な時期に、現在の旦那の岡田太郎さんが現れ、「声が出なくても一生懸命やれば見る人はわかってくれるよ」フォローし、吉永さんの体調を思いやり、様々な治療法をあたっては、効果のありそうなものを勧めてくれたそうです。
当時の夫のことを吉永さんは、
(岡田さんは)いろんな治療法を勧めてくれて、声を取り戻しました。自分を愛してくれている、という思いが膨らんでいった
と回想してます。
岡田さんの優しさに惚れてしまった吉永さんは、父には仕事の打ち合わせだと言って、岡田さんの職場(フジテレビ)周辺の河田町近辺の寿司店や、新宿の和食店、銀座東急ホテルで、岡田さんとデートを重ねるようになりました。
結婚を強く望んだのは吉永小百合さんの方で、当時にすでにバツイチだった岡田さんは「結婚は大変だよ」と「女優は独身の方が有利だから、このままでいい」という言葉を投げかけていたそうです。
結婚を発表した際は、15歳も年上でバツイチだった岡田さんに周囲は反対したそうです。
それでも吉永さんは岡田さんとの将来を求め、結婚に至りました。
ちなみに結婚式は岡田さんと同期入社の、千秋与四夫(せんしゅう よしお)さんの家で、5人だけ招待してささやかなに行ったそうです。
吉永小百合と岡田太郎にとっての子供は映画?一時期は主婦業のために休業
吉永小百合さんは岡田さんと結婚した後に、「もう一度、人間らしい生活がしたい」と、女優業を休業して主婦業に専念しました。
休業の間に岡田さんとの間に子供が生まれたと噂されましたが、半世紀以上経った今になってもお二人の子供は目撃されていません。
2017年に実施された『日本生命』の『母の日アンケート』では、理想の母親ランキングで見事1位に輝いたこともあるのに、皮肉ですね・・・。
吉永さんは自分の子供に関しては、「映画と一緒に自然に年を重ねていけたらいい。映画たちは私の子供です。」と、結婚当初から子供を作らないこと夫婦の約束事にしていたそうです。
また、「母親になる自信がなくて…」と明かしたこともありました。
女優業を休業していた間の吉永さんは料理学校に通い、銀行に言って一般人が行う手続きを勉強したり、とにかく平凡な幸せを求めたそうです。
吉永さんは当時のことを、
親が常に私の後にぴったりとくっついていて、私にいろいろ期待して、娘を守ってきたというか、溺愛されていたんですね、父にも母にも。それが苦しくて。(中略)だから結婚することで家を出て、名前を変えることで親から離れようと思いました。
結婚相手は誰でもよかった
両親からの逃避行に必死だったの
と、親から自立したい気持ちが先行していたことを語っています。
専業主婦としての普通の幸せを満喫した吉永さんは、1974年に無事に女優に復帰されています。
ちなみに吉永小百合さんの母である和枝さんは、娘が結婚した数年後の1976年にエッセイ「母だから女だから」を出版。エッセイの内容にはで娘を奪った岡田さんへの憎しみが綴られていました。
旦那の岡田太郎さんの現在。家をバリアフリーにリフォーム?肝臓の病気で危篤状態
15歳年上の男性と結婚された吉永小百合さん。
現在では吉永小百合さんも歳を重ね、旦那である岡田さんは健在なのか気になります。
2014年の夏頃、岡田さんが肝臓の病気で危篤状態に陥ったことがニュースになりました。
吉永さんは夫を介護する未来を見据えて、自宅マンションをバリアフリーにすべくリフォームされていたそうです。
リフォームの工事中に購入した自宅を気に入り、そちらの自宅も大切にしており、岡田さんが足を悪くした際には岡田さんだけバリアフリーの自宅で、吉永さんはリフォーム中に購入したマンションに別々に住むということもあったみたいです。
現在は一緒に仲良く住んでるそうです。
田さんは小百合さんの手料理が日々の楽しみのようです。特にかつお出汁の味噌汁が欠かせないそう。それから小百合さんは酒の肴が得意で、例えば、いただき物のカラスミでも、手作りの梅酢につけたり、一手間をかけるようです。
岡田さんは今も吉永さんの手料理を好んでおり、今になっても二人はラブラブのようです。
吉永小百合と渡哲也の熱愛。結婚しなかった理由(破局の原因)
吉永小百合さんといえば、若い頃に渡哲也さんとの大恋愛が有名ですね!
俳優の渡哲也さんと吉永小百合さんは、1966年の映画「愛と死の記録」で共演してから急接近しました。
当時、渡哲也さんが25歳で吉永小百合さんは22歳でした。
映画「愛と死の記録」で恋人役を演じた2人。
渡哲也さんは元々出演する予定になかった作品でしたが、主演が出れなくなったということで、急遽ピンチヒッターで出演し、吉永小百合さんと出会ったのです。
その後には「青春の海」(1967年)、「嵐の勇者たち」(1969年)でも共演し、名コンビとして人気でした。
当時から撮影現場での二人の姿は、「誰から見ても相思相愛」で、交際は隠してもすぐにバレていたそうです。
吉永小百合の両親が渡哲也との結婚に反対し破局。傷つき一人旅
互いに深く愛し合った間柄だった渡哲也さんと吉永さん。
吉永さんは渡哲也さんとの結婚を望んでいたそうですが、小百合さんの父親の「吉永芳之」さんに、結婚を断固反対されました。
渡哲也さんが実家に吉永さんを連れて行って紹介したものの、渡さんの親は”女優引退”を条件に突きつけ、その条件に当時吉永さんのマネージャーも担っていた父が激怒し反対したのです。
結局、1969年に両親の猛烈な反対により、俳優の渡哲也さんと破局してしまいました。
渡さんは当時のことを、
「どうして俺のところに飛び込んできてくれないだ」
と親に従った吉永さんの判断が優柔不断で寂しかったそうです。
吉永さんは当時のことを、
両親を説得できなかったんです。だから(渡と)直接会って、「あなたとは結婚できません」と伝えました。涙が止まりませんでした。それで別れたんです。
と涙が止まらないぐらい辛かったと回想してます。
パリへの傷心旅行と渡哲也の結婚。現在の夫・岡田太郎との出会い、結婚、休業。
渡哲也さんのことを忘れられない吉永小百合さんは、破局した同年1969年の暮れにパリへ傷心旅行に出かけます。
その後、1971年に渡さんが一般女性の俊子さんと結婚したことを知ると、酷く落ち込み、体調を崩してしまったそうです。
声が出なくなるほどボロボロになっていた頃に出会ったのが、現在の旦那である岡田太郎さんです。
岡田さんと結婚してすぐに女優業を休業したのは、渡哲也さんとの件で結婚を反対した両親への当てつけだったのでは?と言われています。