町田友潤の現在は福祉会社社長&グラブ開発。プロ行かず早稲田大学で消えた天才

町田友潤さんといえば、過去に高校野球の名門・常葉菊川に在籍した選手です。

アマチュア選手でありながらも知名度は圧倒的で、野球ファンなら誰もが知る存在です。

伝説の高校球児として語り継がれる町田さんですが、高校を卒業した後に若くして引退しています。

進学した大学をすぐに退学したり、近況がわからない時期が長く続きました。

今日は、町田友潤さんの高校時代の実績、高校卒業後から現在までを書いてみたいと思います。

町田友潤とは誰?高校史上最高のセカンドでYouTubeでプレー集が人気!常葉菊川黄金期のメンバー

町田友潤さんとは、

”高校球児の中で最も知られたセカンド”

”高校球児のまとめ動画の中で最も再生された男”

”甲子園で最もファインプレーをやった男”

と形容して間違いないと思います。

町田友潤さんは2006年から2008年の静岡県・常葉菊川に在籍していました。

名前 町田友潤(読み:ともひろ)
生年月日 1990年6月21日
出身地 静岡県沼津市
身長 171センチ
ポジション セカンド
左右 右投げ右打ち
出身中学校 沼津市立静浦中学校
出身高校 常葉学園菊川高校
出身大学 早稲田大学(中退)
球歴 ソフトボール(沼津選抜)→三島リトルシニア→常葉菊川高校→早稲田大学(中退)→ヤマハ(引退)

町田友潤さんの出身地は多くのサッカー選手を生んでいる静岡県です、町田友潤さんも小学1年生の頃からサッカーを習っていたようです。

小学2年の頃に2つ上の兄貴の影響でソフトボールを始め、少年時代はサッカーとソフトボールの掛け持ちをするというスポーツ少年でした。

野球は友人らと空き時間に遊びでやる程度だったそうですが、結局は野球が一番好きだったようです。

中学から三島リトルシニアにて野球を始めたというのは、意外な経歴ですね!

甲子園最高のセカンドとして歴史に名を残す。当時の実況が「セカンドに打ってしまうと望みはありません」と解説する

2008年の全国高校野球選手権での常葉菊川は、大阪桐蔭に敗れて準優勝となりました。

2008年夏の常葉菊川はエースの戸狩投手が故障で本調子を発揮できず、急遽、本来のオーバースローからサイドスローに変更して騙し騙しの投球。

決勝までに横投げの戸狩投手と2番手投手の2人で、何度も強豪相手に痛打されるという苦しい展開でした。

悲惨な投手力の常葉菊川が決勝までに駒を進めることができたのは、他でもなく町田選手のファインプレーがあったからです。

そんな2008年の決勝の実況で、後に町田さんの代名詞となる、

「セカンドに打ってしまえば望みはありません」

という名言が生まれます。

町田友湿は守備が下手だった。打撃でレギュラーに抜擢されるも1年秋にエラー連発

町田さんは2年の春に選抜で優勝を経験していますが、この頃から守備は光っていました。

しかし、この頃は決勝でバックスクリーンに本塁打を放つなど、打撃の方が守備よりも目立った印象でした。

実際に中学まで打撃は得意でも守備は酷く、1年の秋にはエラーを7つも連発しています。

「何度もエラーしたことが本当に情けなくて、そこから毎日のように全体練習が終わったら、自主練習でノックを打ってもらうようにしました。とにかく数多く捕球することを意識して、そこから少しずつ守備の感覚を掴み始めました。」

レギュラーに抜擢された理由は打撃の良さで、決して守備力で勝ち取ったレギュラーではなかったのです。

町田選手の守備力が目立つようになったのは2年の夏の甲子園からです。

2年の夏の初戦の日大山形戦でショートとのグラブトスの連携、2回戦の日南戦で華麗なダイビングキャッチ、準決勝の広陵戦にて背面グラブトスを披露したのです。

3年の春には肩の強いショート酒井との取ってから早い4−6−3が常葉菊川のセールスポイントの1つでありましたが、チームが勝ち進むまなかったので、見せ場は少なかったです。

3年の夏には、実況アナウンサーも町田さんの守備に忖度したような実況を始め、理解してる観客も多く、セカンドに打球が飛ぶだけで声援が上がる状態でした。

浦添戦でのダイビングキャッチ、智弁戦の最終回でのバッグキャッチのダブルプレーなど、多くの名シーンを演じました。

3年の最後は大阪桐蔭に大差で敗れましたが、最後の試合の実況で「セカンドに打ってしまえば望みはありません」という名言は、町田さんが手にした最高の名誉だったのかもしれません。

町田友潤は”消えた天才”に出演。その後と現在について語る。宮本慎也と仁志敏久も絶賛!

町田友潤さんの甲子園でのファインプレー集がネット上で注目を集めたのは2008年の甲子園直後で、”ユーチューバー”という言葉もない時代でした。

「セカンドに打ってしまえば希望はありませんスペシャル」という町田選手のまとめ動画が驚異的な再生数を記録

動画はどちらかというと”衝撃動画”のような扱いで、野球ファン問わず再生されました。

リアルタイムで町田さんのことを知らなかった方も、まとめ動画で町田さんを知って衝撃を受け、たちまち有名人になったのです。

2017年からアマチュアの世界で活躍するもプロにならなかったアスリートについて特集する”消えた天才”という番組が始まり、”常葉の町田くんこそが出演するべき番組だ!”と期待されていました。

実際に、多くの野球ファンが番組宛に”町田くんを取り上げて欲しい”とリクエストを送っていたそうです。

動画サイトで338万回再生の人気を誇る“守備の天才”。番組視聴者の出演してほしい「消えた天才」のアンケート第1位でありながら、本人の希望で出演がかなっていなかった。今回、スタッフが「アンジャッシュの渡部さんがどうしても会いたいと言っている」と交渉した結果、ついに出演OKに。それは、2008年の夏の甲子園で優勝した常葉菊川(静岡)の町田友潤(ともひろ)二塁手だった。

町田さんが特集されるのはかなり遅く、取り上げてもらえたのは2019年でした。

出演が遅れたのは町田さん本人が出演を謙遜し続けたのが理由でした。

町田友潤は肩の弱さと腰痛に苦しむ。プロ志願はせず早稲田大学進学も中退しその後はヤマハ(社会人)で引退

2019年8月11日に、多くの野球ファンが待望していた”消えた天才”での町田友潤さんの特集が実現しました。

番組の中でも町田選手の高校時代のファインプレーの数々が映し出され、スタジオにいる芸人さん、タレントさんからは驚愕のリアクションが飛び出しました。

さらに、番組スタッフが守備の名手である宮本慎也さんと仁志敏久さんに町田さんの守備を見せると、

両者共に、

”プロでもなかなかいない”

”どうしてプロに行かなかったのか”

”ボディバランスが素晴らしい”

と太鼓判を押していました。

町田さんは早稲田大学を中退し、その後に社会人のヤマハで高校時代に支えた戸狩投手と共にプレーするも、その後2013年に23歳の若さで野球選手を引退していたのです。

町田選手が若くして野球を辞めたのには、様々な理由があります。

もともと町田さんは中学生の頃から腰が悪く、常に痛みを堪えてのプレーだったそうです。

さらに、自身の肩が弱かったことも上の世界で野球を続けなかった理由の1つだそうです。

ちなみに、早稲田大学を辞めた後には、”人間関係で辞めた””先輩にいじめられた””古い風習が合わなくて辞めた”など、ネットで様々な噂が出ていました。

町田友潤が早稲田大学を中退した理由は”人間関係”。腰痛と肩の弱さがネックでプロに行かずにヤマハで引退

2019年に念願叶って「消えた天才」に出演してくれた町田さん。

しかし、番組の中では語られなかった、ファンの誰もが知りたかった話があります。

それは、”町田選手が早稲田大学を辞めた理由”です。

大学を辞めた理由が語られたのはテレビメディアではなく、ある雑誌の中でした。

「単刀直入に言うと、僕が精神的に子どもでした。理不尽なことはあってはいけませんが、実際は野球の世界にも理不尽なことはあります。でもそこに対して、自分が真正面から受け止めてしまい、どんどん塞ぎ込んでしまい逃げてしまいました。
 別に暴力などがあったわけではありません。社会に出たら理不尽なことはもっとありますし、本当に自分が精神的に幼かったのだと思います」

簡潔にいうならば、”人間関係や早稲田の風習や理不尽に耐えられなかった”ということです。

実は早稲田大学野球部は、昔から甲子園のスター選手が突如退部するという現象が多くあります。

その理由には内部にある古き風習や上下関係の厳しさにあるとされます。

早稲田中退後にプロになった選手には元横浜の笠井崇正さんや、元ダイエーの大越基さんなど数多くいますが、才能を持ったまま野球から離れてしまった勿体無い逸材が数えきれないほどもいます。

町田さんが辞めた後もにネット上ではそれらの理由が疑われていました。

町田さんは決して早稲田大学のことを責めずに、自分自身の問題だったと反省しているようです。

現在でも早稲田の先輩とも連絡を取り合うなどしており、完全に嫌な思い出になっているわけではないようです。

町田友潤はプロ野球の未練はない?広島・菊池の守備練習を見て”レベルが違う”

今でも”もし町田がプロに行ってれば”との声が多くあります。

プロに進まなかった理由に関しては「消えた天才」でも語られ、理由は主に”持病の腰痛”と”肩の弱さ”でした。

肩の弱さに関しては「消えた天才」にて、宮本慎也さんがやんわりと指摘していました。

プロの世界では、打者の打球が強い為にセカンドの守備位置は深く、さらに打者の走力も桁違いということで、セカンドにも最低限の肩力が求められるのです。

町田さんはプロの世界に未練はないらしいです。

広島カープの練習を見に行った際に、プロ随一の守備力を誇る菊池涼介さんのプレーを見て”レベルが違う”と、全てが吹っ切れたそうです。

町田友潤の現在は福祉会社の社長代表。グローブ「マーゴ」のプロデュースも行う

町田さんは2013年に社会人のヤマハを最後に23歳の若さ引退。

一時期、消息不明な時期もありましたが、その後に起業していたこと明らかになっています。

現在は児童福祉の仕事をしており、株式会社Greeの社長です。

元横浜高校野球部主将で、一般社団法人「日本未来スポーツ振興協会」の小川健太代表理事が中心になって進めている取り組みで、町田さんは静岡支部の代表となっています。

町田さんと小川さんの2人は高校時代から親交があり、卒業後も連絡を取り合う関係だったそうです。

福祉に興味を持ったきっかけは、甲子園で出会った障害のある子供で、その子供から自分のプレーが励みになってると聞かされ、感極まったことが忘れられなかったからだそうです。

町田さんの会社は浜松市で放課後等デイサービスと児童発達支援の事業所を計4つ経営しており、障害のある子供の食事、着替え、排せつなど子どもたちの自立訓練を従業員とともにサポートしています。

現役を引退しても、野球とのかかわりは断っておらず、野球を通じて出会った人とのつながりは途切れていません。

町田友湿と野球の現在の関わり。グラブの開発や無償提供

現在は福祉の会社を経営してる町田さんですが、野球への関わりは途切れていません。

今でも経済的に恵まれない子どもにグラブを無償で提供する取り組みに参加したり、浜松市の女子野球チームで臨時コーチを務めることもあります。

さらに野球を通して知り合った縁で、グラブの開発依頼を受けリリースし話題となりました。

グローブの名前は「Magoで、スペイン語で「魔術師」を意味しています。

グラブの特徴については町田さんは、

「アウトを取るためのグラブがコンセプトです。手と一体化している感覚で、ストレスなく打球を追えます」

「打球を追っている時にグラブを重く感じたり、手に馴染んでいなかったりすると、集中できなくなります」

と、体と一体するフィット感に優れたグラブになっているようです。

グラブの捕球面には野手がダイビングキャッチするシルエットがデザインされていますが、そのシルエットは3年夏の浦添商での自身の伝説のプレーがモデルとなっています。

ちなみに、このグラブの売り上げは町田さんの利益にはなりません

町田さんは、

自分の理想とするグラブができ上がるだけで幸せです。今までお世話になった人たちへの恩返しや地域貢献になればと思っています」

とのことです。

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