玄倉川水難事故の亡くなった子供と生き残りの現在。加藤直樹と娘のその後

今でもネットで伝説として語り継がれる「玄倉川水難事故」

現在では「DQNの川流れ」と名づけられ、キャンプ上で事故が起きる度に掘り起こされます。

1999年の8月に起きた事故ですが、今でも事故の詳細を知りたがる人が多いです。

「DQNの川流れ」が現在も注目される理由には、”事故に至るまでの経緯が酷かった”、”被害者の態度が悪かった”、”生き残った人は普通に暮らしていけるのか?”という好奇の目です。

今日は「玄倉川水難事故」を時系列で振り返ると共に、当時から話題になっていた被害者の言動や行動、確認される生存者の今について書いてみたいと思います。

玄倉川水難事故とは?避難勧告を無視した家族グループの川流れ。死者13名の内4名が子供

玄倉川水難事故とは、1999年8月14日に神奈川県足柄上郡山北町玄倉川の中洲で発生した、4人の子供を含む13名もの死亡者を出した大規模水難事故です。

被害にあった家族グループが、あまりにも非常識で自分勝手だった為、ネット上では「DQNの川流れ」と揶揄されています。

救出に向けて多くの税金が使われ、ヘリコプターまで出動し総額1億は達したのではないか?と言われるほどの事故でした。

まずは、当時の事故を時系列で整理してみます。

玄倉川水難事故の時系列。度々の避難勧告を無視し悪態をついた

玄倉川水難事故が起きたのは1999年8月14日でしたが、前日13日の時点で当日から翌日にかけて現場付近一帯の川の水位が急上昇して洪水状態になる事が容易に予測できました。

危険だと分かる状況でありながらも、家族グループ18人でキャンプを続け、なんと一夜を過ごしたのです。

翌日の朝には川を渡るのも困難な状況で、レスキュー隊、救助隊、警察だけでなく、一般人の方も救助に参加されたそうです。

河原で家族グループが円になって水圧に耐える姿はニュースでも流れ、当時世間を驚愕とさせました。

1999年8月13日15時頃 紀伊半島南海上で発生した熱帯低気圧の影響で、各地で局地的な豪雨が発生し、事故現場一帯でも雨が降り始める。
15時20分 玄倉ダムの管理職員が一帯を巡回し、河川でキャンプをしている人々に向けてマイクで避難勧告。被害者グループ以外は退去し、被害者達は無視
16時50分 気象庁が神奈川県全域に大雨洪水注意警報を出す。
19時35分 玄倉ダムが決壊を防ぐための放流を警告するサイレンを鳴らす。通常10分だがこの日は30分鳴らされる。
19時50分頃 玄倉ダムの職員が2度目の避難勧告。被害者グループに直接話しかけるも拒否しダム職員を追い返す
20時6分 ダム職員がこれ以上留まる事は険だと判断し、神奈川県警察松田警察署に通報し退去命令を出してもらう。
20時20分 決壊による被害を防ぐため、玄倉ダムが放流を開始
21時10分 警察官とダム職員が再び被害者グループに避難勧告。この時点で中洲と川辺の間の水量は上昇して渡る事ができず、拡声器を用いて避難勧告。被害者グループらは「大丈夫」といった反応をし動かない
22時45分 再び警察官が避難を呼びかけるも、被害者グループは酒に酔い「うるせぇ」「警察にそんな事を言われる筋合いはない」と悪態をついて警察官を追い返す。
8月14日5時35分 神奈川県全域に大雨洪水警報
6時頃 前日に避難した3人が川辺から中洲からテントに向かって大声で避難を呼びかけるも反応なし
6時35分
玄倉ダムは雨量の増加に対応するためダムの放水量を増やす。
7時30分 再び警察官が現場を訪れて避難を呼びかけたものの反応なし。
8時4分 前夜に避難した3人が119番通報し救助要請
8時30分頃
川の水量が増して中洲は完全に水没。テントも水流で流される。グループは幼い子供を抱いて身を寄せ合い、残されたパラソルにつかまって必死に耐える
9時7分 救助隊到着。渡河による救助を試みるが水流が強く二次被害の恐れから断念。
10時頃 レスキュー隊員2名が対岸の山斜面の断崖を伝って反対側の岸に到着。マスコミも到着しテレビ取材も開始。
10時10分 足柄上消防組合が救助ヘリの出動を要請するが悪天候による二次被害が懸念されて却下。
10時30分頃 レスキュー隊が対岸に向けて救命索発射銃でリードロープを発射するが1発目は対岸樹木に引っかかり失敗。
10時44分頃 2発目のリードロープが対岸に届くが、1発目のロープに絡みつき流木や水流に妨げられる形でグループの場所まで届かず。
11時頃 警察からの要請を受け玄倉ダムの放流が停止。ダム決壊による被害を避けるために5分後に放流再開。
11時16分 救助隊からリードロープは張られているものの、救助用のメインロープが水流に流されて張ることができないとの報告。
11時38分 中洲の水深は大人の胸あたりに達しグループは濁流に飲み込まれて流される。※流される寸前、男性の1人が当時1歳の加藤直樹の息子を岸に向かって投げ救助に参加していた一般男性が危険を顧みずに川に飛び込み奇跡的に救助。

3時間も円になって水圧に耐え続けたようですが、力のない女性や子供には耐え難いパワーだったことです。

せめて朝から警察や救助隊に反応し、ワンテンポ早めに動いていれば助かったのかもしれません。

ちなみに流される寸前にグループの男性(叔父・加藤裕二)が当時1歳の加藤直樹の息子・加藤一樹を岸に向かって投げたそうです。

男が咄嗟に投げた1歳児・加藤一樹は救助に参加していた一般男性が危険を顧みずに川に飛び込み奇跡的に救助に成功しています。

当時の映像を見て、抱っこされてる赤ちゃんの行方が気になった方が多いようですが、赤ちゃんの2人の内1人は無事に助かっているので、それは不幸中の幸いです。(※1歳児の加藤一樹さんと双子の赤ちゃんであった女の子の方は助かりませんでした。)

ネットでは「DQNの川流れ」。おにぎりを床に投げるなど事故後も態度悪く。現在までに非難の的

玄倉川水難事故が起きてから長い年月が流れましたが、現在もネット上では”子供を巻き込んだ胸糞悪い事故”として語り継がれています。

何度も警告したにも関わらず、避難勧告をした職員や警察に「うるさい」「殴るぞ」と暴言を吐いて無視するなど、態度が悪かったことも原因です。

大雨が降ると天気予報で分かっていたにも関わらずキャンプを始めたと言う点が理解不能で、”自業自得だった”と言われています。

また、事故後に発売された雑誌「噂の真相」の中にて、当時の家族グループのリーダー格だった加藤直樹さんに直接勧告した人のエピソードが酷かったとしてます。

暴露雑誌「噂の真相」1999年10月号に加藤直樹の暴言や救助後のおにぎり投げつけが報告される

事故から2ヶ月後の1999年10月、雑誌「噂の真相」にてグループのリーダー格だった加藤直樹さんの当時の言動や行動の詳細が載せられました。

雑誌で加藤直樹さんのことを証言した方は、「神奈川県山北町の匿名老人」と名乗る方です。

その証言者は現場付近に住んでおり、事件発生の直前に加藤直樹さんらに”危険だから避難するように”と忠告をしに行っていた方でした。

男性が「この後水位が増えるから早く避難した方がいい」と忠告すると、加藤さんは「大丈夫だよ、俺らは慣れているから」と反論

その後も男性が「私は地元の者だからわかるが、川は氾濫するよ、子供もいるのだから高台に行った方がいい」と忠告しても「放っておいてくれ、楽しんでんだよ!」と逆キレしてきたそうです。

加藤さんと同グループの人も「地元の人は臆病だね」「田舎の人は他人のプライバシーを侵すのが趣味ね」「見張りをおくから大丈夫」と加勢してきたのです。

結局、男性は注意を諦めて帰ったそうですが、忠告した際に1人の子供の女の子が「あのおじさんの言う通りにしようよ」と言っていたのが忘れられず、悲しかったようです。

この証言自体の信憑性は謎ですが、他の媒体からも加藤直樹さんらの暴言や非道な行動などが報じられています

”まいじつ”では救助隊への暴言が報じられる。掲示板で”差し入れのおにぎりを叩きつけた”との書き込みも

「週刊実話」を発行する日本ジャーナル出版が運営するニュースメディア「まいじつ」からも、当日の加藤直樹さんの暴言などが報じられています。

地元記者の証言で、中洲に取り残された加藤さんが救助を待つ間、救助隊員に向けて、

「ヘリを出せ!早く助けろ!お前らの仕事だろ!」

などと暴言を叫び続けていたという事です。

当時のニュース映像にも加藤直樹と思しき男がヘリを指差しながら叫んでいる様子が残されており、信憑性が高いです。

また、加藤さんとは別の男性かもしれませんが、中洲から救助隊に向かって「モタモタするな」と怒鳴っている姿の映像が残されています。

匿名掲示板では、加藤直樹さんが救助後に地元のボランティアから”おにぎり”を差し入れとしてもらったそうですが、加藤さんはそのおにぎりを地面に叩きつけ、

「まずい!もっとマシなものを出せ!」

と暴言を吐いたという暴露もあります。

また、子供を含む13名の仲間らが行方不明なのにも関わらず、”流されたテントを回収したら返してほしい”と捜索隊に要求していたとの逸話もあります。

おにぎりの件に関しては公式な媒体からのエピソードではないので信憑性は薄いですが、上記の暴言の数々からも「本当では?」と言われています。

玄倉川水難事故の生き残り”加藤直樹”。勤務先の会社”富士繁”。娘・加藤朝香もブログで想いを綴る

キャンプに参加した18人の内、13人が犠牲になった玄倉川水難事故。

ネット上では生き残った5人の現在へ関心が向いています。

生き残りの中で最も有名なのが数々の言動と行動が都市伝説として残っている”加藤直樹”さんです。

加藤直樹さんはグループのリーダー格であり、当時一緒に参加した5歳の娘と1歳の弟も助かっています。(※嫁と下の1歳の娘は助かっていません)

加藤直樹さんの職業は当時の報道から公表されており、金属加工や産業廃棄物処理などを事業内容とする横浜市港南区の会社「富士繁」の社員だった事がわかっています。

読売新聞の記事によれば、他の「玄倉川水難事故」の被害者らは、「富士繁」の社員と家族が中心だったと報じられています。

加藤直樹さんも現在も同じ仕事をしているのかは不明ですが、以前にYouTubeで職場に突撃訪問してる動画がアップされていました。

その人物が加藤さん本人だったか、ちゃんと確認できる証拠はありませんでした。

加藤直樹の娘・朝香はブログで母とのエピソードを書いて炎上。赤ちゃんだった息子・一樹は不明

加藤直樹さんのその後の詳細については不明ですが、助かった娘の加藤朝香さんに関してはオープンにブログを書いており、知る人ぞ知る存在でした。

事故当時5歳だった子供がすでに高校生になってブログを書いていること自体が驚きでした。

娘の加藤朝香さんは高校2年の頃にブログに水難事故のことを書いて炎上したことがありました。

たまにね私、ふとあの時の事を思い出すんだ。

どうして私の家族なの?

小さい頃私がママを殺したんだ。

私さえ居なければママは生きていたんだ。

パパがね私を抱いててママがパパに助けを求めていたんだ。

手を伸ばしてね一生懸命流されないようにしてたんだ。

けどねパパまで水に連れていかれそうで怖かったんだ。

だからねパパやめて!って言ったんだ。

そしたらパパがママの手を離したの。

そしたらママ水と一緒にいなくなっちゃたの。

これって私のせいだよね。

これは濁流に飲み込まれた直後に100メートル下流の対岸まで流されたタイミングの出来事について思い出してると思われます。

娘は、水が怖くて母を助けようとすると父に「やめて」と言ってしまい、それが原因で母が流されてしまったことを後悔してるようです。

そもそも、あのような事故になってしまったのは、別に原因があったので、決して娘さんは悪くないです。

命が助かるチャンスは、流される前に3度はあったとされていますので、流された後の局面での出来事を当時の小さな子供が反省する必要はないです。

ごめんね本当に…。

ママに逢いたいです。

小さい頃もずっとママが欲しかった。

皆にはママがいて私には居なくて悲しかった。

今でもママが戻ってきてほしいと思っている。

あと優香にも戻ってきてほしいんだ。

私には妹がいたんだよ。

ママがいなくなっても明るい朝香でいてねって色んな人に言われた。

そう簡単に言うなと思ったよ。けど私なりに頑張ってきた。毎日明るく生きてる…

娘さんは、幼くして母を亡くしてしまい、ずっと寂しい想いをしてきたようです。

また、生きてれば自分が姉だった事実も悲しいようです。

当時、娘さんがブログに上記の内容を書くと、「美談を気取るな」や「自業自得だ」と非難の嵐でした。

しかし、冷静に考えて娘さんは何も悪くないですし、むしろ被害者だったと思います。

ただ、事故が世間からどのように見られているのか、それを肉親である娘がネットに書くとどうなるのか、もう少し考えた方が良かったかもしれませんね。

彼女は救助活動に対するダメ出しや、”無理矢理避難させるべきだった”との発言や、近所住民へのクレームも書いていたので炎上したのです。

その他に未成年飲酒や不登校気味な素行などにも炎上の理由になったそうです。

ちなみに朝香さんの弟である加藤一樹さん(当時赤ちゃん)の現在については不明です。

一樹さんは叔父である加藤裕二の咄嗟の判断により投げられ、勇気ある一般救助隊の方が川に飛び込み救助されました。

加藤家の人間以外で唯一残った平野兄弟の現在

当時の水難事故で助かった人間のほとんどが加藤家の方でした。

加藤家の人間以外で有名な生き残りといえば、平野幸男さんと平野嗣富さんの兄弟です。

平野兄弟の現在についても詳細はありません。

玄倉川水難事故の現場の現在。美保ダムである田沢湖は心霊スポット?

玄倉川水難事故が起きた現場の周辺はどうなっているのでしょうか?

なんと今は主に玄倉川は心霊スポットとして取り上げられているようです。

犠牲者の数も多く有名な事故なので仕方ないですね・・・。

気分が悪くなる、被害者が彷徨っているなどと噂されており、特に遺体が見つかった美保ダムである田沢湖周辺などもスポットとして数えられています。

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