三沢光晴の最後の対戦相手・齋藤彰俊。死後に自死を想う瞬間も。娘/楓と嫁

プロレス界の大物「三沢光晴」さん。

生前はノアの社長兼看板選手として活躍されていました。

当時、下火だったプロレス人気の中でも、責任感を持ってマットに向かう姿はファンにとっては心強い思い出です。

そんな三沢さんは2009年に試合中に不慮の事故で亡くなっています。

今日は、三沢さんが亡くなった試合中のことや、対戦相手だった当事者の齋藤彰俊さんのその後について書いてみたいと思います。

また、あまり語られることのなかった三沢さんの結婚相手の真由美さんや、2人の子供についても書いてみたいと思います。

三沢光晴とは何が凄い?結婚した嫁・真由美と娘・楓。息子もそっくり!

2009年に試合中の不慮の事故で亡くなったプロレスラーの三沢光晴さん。

亡くなった当時は46歳の若さで、多くのプロレスファンが彼の死を悔やみました。

名前 三沢光晴
出身地 北海道夕張市(埼玉県越谷市育ち)
生年月日 1962年6月18日
命日 2009年6月13日
身長 185センチ
体重 110キロ
職業 プロレスラー
出身高校 足利工業大学附属高等学校
趣味 ヒーローモノ。テレビドラマ。

”受け身の天才”三沢光晴。どんな技も使える凡事徹底の職人。人柄も良く若手に慕われた

三沢は「不世出の天才プロレスラー」と呼ばれ、または「受け身の天才」と評されていました。

受け身など基本的なことが徹底された上で、投げ技・飛び技・関節技を緩急自在に使いこなす、”何でも手本”になる選手でした

相手選手の特徴に合わせた戦いができ、相手に見せ場を与える能力にも長けていました。

過去、多くの王座を獲得し、名勝負を量産し、ファンからは”三沢の試合はハズレがない”と信頼されるような存在でした。

また、若手時代に自身が理不尽な境遇に遭っていたため、”自分は若い子に理不尽はしない”と、当時のプロレス界にありがちな上下関係や序列を正しく整えた人物としても知られてます。

先輩、後輩、ライバルからも尊敬される、素晴らしい人柄の選手だったのです。

まさに、プロレスラーに必要な「心・技・体」の全てを兼ね備えてMr.パーフェクトでした。

嫁・真由美は元女優。馴れ初めは花束嬢としての興行参加。幾度もプロポーズし結婚!

雑誌などでも私生活の詳細を語ることは少なく、とても控えめな性格でした。

結婚してることは公表されていますが、嫁さんや子供の話は少ないです。

嫁さんは4歳年下で、1988年に結婚しています。

三沢さんの結婚相手は元女優の真由美さんで、死後に発売された書籍『LAST BUMP 愛妻からみた 素顔の三沢光晴』にて、三沢さんとの出会いや結婚生活について話されました。(著者は三沢さんと親交があった女性記者)

三沢さんと真由美さんは馴れ初めは、真由美さんが新人女優時代”第2回ミス映画村”に選ばれた後のことです。

嫁・真由美さんは花束嬢の仕事を受け、全日本プロレス大阪大会で花束嬢を担当し、試合後の打ち上げで三沢さんと出会ったのです。

連絡先を交換し遠距離恋愛が始まり、何度もプロポーズをされた末に、1988年5月に見事に挙式することとなりました。

結婚後に長女・楓(かえで)さんと長男・康真(しずま)さんが生まれました。

書籍を読んでる限り、理想的な父親とは言い難いですが、嫁さんと子供2人で楽しく暮らしていた印象がありました。

三沢光晴の嫁・真由美がノアの関係者に5000万騙される。詐欺女が団体解散の理由に関係ある?

2009年に三沢さんが亡くなった後、真由美さんがノアの関係者の女性に騙されるという事件がありました。

三沢光晴の死からわずか2ヶ月後の2009年8月から10月にかけて、ノアの興行を手伝っていた女性から借金の相談を受け、5000万円を貸してしまったのです。

A被告は当時、三沢さんの死から間もない同年8月、三沢さんの葬儀で初対面し、それまですっかり打ち解けていた三沢さんの夫人に「自分の口座が国税局に凍結されていて、追徴金を払って復活させるまでお金を動かせない。5,000万円あれば解除できるので立て替えてほしい」と融資を依頼。

A被告がノアに対し多大なる支援をしていたことを知っていたため、同年10月まで5回に分け計5,300万円をA被告の口座に借用書をとることなく振り込んだ。

その後に真由美さんにお金は返済されず、その女は逮捕され服役

当時は、三沢ロスが続いてた悲しい時期だっただけに、プロレスファンの女性に対する怒りは相当なものでした。

しかし、その後、A被告は10年6月までに三沢さんの夫人にわずか500万円しか返済せず、同9月に三沢さんの夫人はA被告夫妻の自宅などを差し押さえ、その後、未返済金4,800万円の返還を求めて東京地裁に提訴し勝訴。その後、刑事告訴したが民事で判決が出ているため、この件では不起訴となった

勝訴はしたものの、現在までにお金が返ってきてる可能性は低そうです。

女性は詐欺で逮捕される手前に離婚しているのですが、逮捕後に元夫がジミー鈴木さんのブログ欄に、

私は、元夫という非難誹りは残りの人生受け続けようと思っております。 そして、本当の被害者に対しては誠意を尽くして弁済しようと考えております。

とコメントしているので、出所次第、返済したい気持ちはあるとのことです。

現在までに詐欺を働いた女性の名前(成田眞美)がネットに流出し、漫画化されるなど都市伝説のように語り継がれています。

三沢光晴の2人の子供。長男・康真(しずま)と長女・楓(かえで)

三沢光晴さんは1988年に真由美さんと結婚し、その翌年1989年に長女・楓さんが誕生しました。

楓さんが生まれた後も、長男・康真(しずま)さんが誕生しました。

三沢さんの子供は女1男1の2人ということになります。

長女の楓さんは2009年に父が亡くなった際に、喪主を母の代わりに務めました。(真由美さんは憔悴して交代)

当時の長女は20歳でした。

そして、長男の康真(しずま)さんが遺影を手にしていました。

埋葬後は真由美夫人が位牌(いはい)、長女が遺影、長男が遺骨を持って帰宅し、最後に自宅に立ち寄り最後の家族の時間を過ごしました。

三沢光晴の最後の瞬間。対戦相手・齋藤彰俊は自殺も考えた

三沢光晴さんはプロレスリング・ノア所属のプロレスラーであり、ノアの社長も兼任していました。

2代目タイガーマスクとして人気レスラーになって以降、常にプロレス界の第一線で活躍し続け、プロレスリング・ノアを旗揚げしていました。

長くノアの看板選手権社長として活躍されていましたが、晩年は引退を考えるほどに体がボロボロで、やめどきを失っていたそうです。

「俺、もうすぐ47歳(18日が誕生日)だよ? 48,49まではちょっとやれない。もうやめたいね。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。やめたい…」

2009年6月13日の広島県立総合体育館での、GHCタッグ選手権試合(挑戦者:三沢光晴&塩崎豪 VS 王者:バイソン・スミス&齋藤彰俊)が行われ、その試合の中で急死してしまいました。

三沢さんの死去のニュースが流れると、多くのプロレスファンが悲鳴をあげました。

三沢光晴は齋藤彰俊のバッグドロップで意識不明。叩きつけられた後は”く”の字

三沢さんが事故死した試合。

対戦相手の齋藤彰俊さんが三沢光晴さんにバックドロップを決めると、三沢さんは急角度で頭から落ちました。

直角に真っ逆さまの状態で、頭からマットに叩きつけられ、その瞬間に体は”く”の字に曲がっていたそうです。

試合を担当していたレフェリーの西永秀一さんは、すぐに三沢さんに「動けるか?」と聞聞きましたが、三沢さんは「ダメだ、動けねぇ」とだけ答え、その後に意識不明となりました。

結局、その言葉を最後に心肺停止状態となります。

佐々木健介さんや高山善廣さんがバッグヤードから飛び出し三沢光晴に駆け寄り、「社長!」と呼びかけますが、反応はありませんでした。

観客にいた医師がAEDや人工呼吸・心臓マッサージなどで心肺蘇生を試みますが、心拍が再開することなく、心肺停止のまま広島大学病院に救急搬送されました。

病院でも救命措置が行われましたが、同日22時10分に死亡が確認されました。

まだ46歳という若さで、死因は”頚髄離断”でした。

※頚髄とは、背骨の中を通る神経の中でも首のあたりにある非常に重要な神経です。私たちの脳と体をつないでくれ、生命維持に直結している神経になります。

頚髄をちょっと損傷しただけでも、首から下が麻痺して全く動かなくなったり、呼吸ができなくなってしまいます。

前田日明さんは「三沢が落ちた瞬間に、全身がバッと青ざめた」と発言。

三沢光晴の死の瞬間の写真を見る限り、本当に直角に頭から落ちていることが分かります。

受け身の天才と評される三沢さんですが、長年のダメージの蓄積で、以前から視神経や脳神経、頸椎へのダメージで、「動けない」「立ちくらみがする」「歯を磨いてるだけで首が痛い」「右目は視力障害」と満身創痍でした。

事故死する前からボロボロで、特に頸椎(首)には大きな爆弾を抱えた状態だったのです。

レスラーの蝶野正洋さんは経営者の心労も大きかったと語っています。

最後の対戦相手・斎藤彰俊のバッグドロップにミスはなかった。現在までに引退や自殺を考えた

2009年6月13日、広島県立総合体育館で行われた試合中で46歳の若さで亡くなった三沢光晴さん。

死因は頚髄離断で、その原因は斎藤彰俊さんの放ったバックドロップだとされています。

当時、斎藤選手のバックドロップを巡っては、「危険だったのでは」という声がありましたが、プロレス雑誌「週刊プロレス」の編集長だった佐久間一彦さんは

「技も受け身も、どこにもミスがなかった」

と言い切っており、対戦相手の斉藤選手に落ち度はありませんでした。

三沢さんが心肺停止になった後、斉藤選手は広島大学病院に一緒に駆けつけました。

同じく病室にいた真由美夫人に涙ながらに、

「自分が、最後に三沢さんを投げた齋藤彰俊です。本当に申し訳ありませんでした…」

謝り続けました。

真由美夫人は生前の三沢さんとの「試合中に事故で相手にけがをさせたらどうするか?」との会話で、

絶対に謝らない」「相手が受け身を取れなかったことを認めることになる(謝ると)」

と語っていたことから、旦那の意思に沿って、

「決してあなたのせいではないので、気になさらないでください。これから大変だと思うけど、ぜひあなたも頑張って…」

と斎藤選手を責めることは一切しませんでした。

斉藤選手は48時間は息を吹き返す可能性があるという知識を元に、三沢さんが安置された部屋に夜通しで滞在。

しかし、部屋を出た朝にスポーツ紙に「三沢死去」の見出しが載ったのを見て死を実感し、さらに追い討ちをかけられたそうです。

後に夫人は、

「齋藤さんもたまたま事故の現場に居合わせて、たまたまそうなってしまった。あれは事故です。齋藤さんのことが頭をかすめるたびに齋藤さん、そのご家族もああいうことさえなければつらい思いをしたり、悲しい思いをしたりしなくて済んだのではと思います。だから齋藤さんも私も、もう心にしまうものはしまって笑顔で少しずつ歩いて行かなければいけないのかなと思っています

と語っています。

しかし、斉藤選手の精神的ダメージは絶大で、その晩は一睡もできませんでした。

翌日の大会で三沢さんの遺影に向けて土下座し、大粒の涙を流していました。

”会場にいた三沢ファン”はとても暖かく、事故の翌日であったも斉藤選手に罵声や野次を飛ばすことはありませんでした。

会場に駆けつけた三沢ファンは懐が深く、斉藤さんは三沢さんの偉大さを痛感させられたそうです。

事故後の斎藤彰俊。家族への嫌がらせや風評被害

三沢さんが死去したニュースが流れた後は、ネット上では、”斎藤選手が足を滑らせた””三沢さんが変な落ち方をした”という憶測が流れました。

しかし、その後に公開された映像を見ると、至って普通のバッグドロップであり、お互いに落ち度がなかったことが明らかになりました。

それでも、当時は斉藤選手に対する風評被害が出ていました。

13日の試合中に頭を強打し、46歳で亡くなった人気プロレスラー三沢光晴さん。
その最後の対戦相手となった斎藤彰俊選手(43)の家族が嫌がらせなどの被害を受けていることを、ノアの仲田龍統括本部長(47)が17日、明かした。

嫌がらせを受けているのは愛知県内に住んでいる斎藤の家族で、仲田氏は「(事故は)誰の
せいでもない。(三沢さんの)ご家族も理解しているし、三沢も悲しんでいる。本当にやめてください」と訴えた。

斉藤さんのブログには「三沢を返せ」「危険な技かけやがって」と誹謗中傷の嵐でした。

それを可哀想と感じた「週刊プロレス」は直後の「1478号」に連続写真を掲載し事実を伝える事態となりました。

当時の編集長だった佐久間さんは、

本当に普通のバックドロップで、写真を見たら、技にも受け身にもミスがなかった。あれは危ないシーンではなかったと、その事実を伝えなければと思いました」

と回想しています。

斉藤選手は死ぬことも考えたそうですが、ファンの怒りの矛先になって、受け身になることを選んだそうです。

その後にノアを退団しますが、その後に復帰しました。

「”三沢はあんな三流レスラーにやられたのか”と思われないために、三沢さんの価値を高めるために、自分が頑張らなくてはいけない。」

「自分の生き方はずっと変わっていません。けれども、確かにあの日以降、人生が変わりました。すべてが変わりました。

この消えない過去とともに歩み続ける毎日が始まり、背負ったものをどう変えていけるのか、新しい課題が始まりました。

この経験を正にするのか負のするのか?それによって、三沢社長の死の意味も変わってくると思います。この経験をプラスに変えることができたら、三沢社長も喜んでくれると思います」

自分自身が頑張ることが、三沢さんの死を良い意味に変える手段だとして、今後も戦い続けるそうです。

現在では人気選手として活躍されており、三沢さんの写真をバッグに入場するという光景はファンにとっても感極まるシーンとなっています。

重たい十字架を背負い、逃げずに全てを受け止めようとする姿勢は、”今時珍しい”と尊敬されています。

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