星野道夫の凄さ。妻と息子・翔馬の現在。ヒグマに襲撃される最後の1枚はフェイク!

写真家で冒険家の星野道夫さん

生前はアラスカに住み込んで現地の動物や暮らしを撮影するなどし、行動力や洞察力に優れた方でした。

1996年にロシアにて不慮の事故で亡くなりましたが、現在までに多くの方に影響を与えています。

今日は、星野道夫さんの凄さと、家族、亡くなった時のことなどについて書いてみたいと思います。

星野道夫ってどんな人?偉大な経歴と嫁・子供。息子の翔馬も超優秀!三浦春馬に影響を与える

星野道夫さんは、1970年代前半から1990年代半ばまでアラスカで活動してきた写真家です。

野生動物や自然、現地に住む人々の暮らしを撮影してきた人物で、エッセイスト『アラスカ 光と風』、『旅をする木』、『長い旅の途上』など、多くのロングセラー作品を世に送り出しました。

名前 星野道夫
出身地 千葉県市川市
生年月日 1952年9月27日
没年月日 1996年8月8日(43歳没)
職業 探検家。写真家。詩人。
出身小学校 千葉県市川市立平田小学校
出身高校 慶應義塾高校(ヨット部)
出身大学 慶應義塾大学(探検部)

星野道夫の嫁・直子と息子・翔馬。父と同じ慶應義塾大学卒業→海外の大学

星野道夫さん1993年に17歳年下の女性「直子」さんと結婚しています。

結婚した翌年1994年に長男の翔馬さんが誕生しました。

息子の翔馬さんは父が亡くなった1996年は、まだ2歳だったということで、父との記憶はほとんどないそうです。

結婚して早々に亡くなってしまっただけに、子供は翔馬さんの一人だけです。

名前 星野翔馬
生年月日 1994年
出身地 千葉県市川市
出身高校 立教新座高等学校
出身大学 慶應義塾大学法学部

息子の翔馬さんは、父と同じ慶應義塾大学を卒業しており、父の優秀な遺伝子を継しているようです。

2018年1月11日にはNHK BS1にて「父と子のアラスカ ~星野道夫 生命(いのち)の旅」と題して、長男・翔馬さんがアラスカを父親がお世話になった人達に話を聞きながら旅する内容の番組が放送されました。

放送当時の息子は、大学卒業を控え就活目前だったものの、やりたいことがわからない状態でした。

放送後に父が大学卒業後にアラスカ大学に進学したように、息子の翔馬さんも大学卒業後にアメリカのミシシッピ大学に留学しています。

なんとなく父と同じ匂いがする息子なので、今後も注目されることでしょう。

星野道夫の生い立ち。高校と大学は慶應。荒れた時代にアメリカ旅行

星野道夫さんの父親はセイコーでエンジニアとして勤務する優秀な人物でした。

理系で真面目な父親の背中を見て育ち、星野道夫さん本人も成績優秀な少年でした。

子供にして『シートン動物記』といった動物系の冒険物や探検記を好んで読んで育ったそうで、特に堀江謙一さんの『太平洋ひとりぼっち』に強く影響を受け、将来はヨットで世界一周をすることを夢見ていました。

慶応義塾高校に入学すると迷わずヨット部に入部し、旅行資金を貯めるためにバイトに励み、高校2年生にして横浜港から出港する移民船に乗り込み、”単身での”アメリカ西海岸に旅立ちました。

当時のアメリカはべトナム反戦運動や公民権運動で混沌とした状況にあり、高校生が1人で渡航するだけでも大冒険でした。

星野さんは40日間の旅の中で、アメリカだけでなく隣国のメキシコ(当時から危険な国)にも立ち寄りながら無事に帰国しました。

エスカレーターで慶応義塾大学に進学すると、今度は探検部に入部し、大学時代には気球で冒険した記録も残っています。

アラスカに住み込み斬新な写真を多く残す。複数の名誉な賞を獲得

星野道夫さんがアラスカの魅力に出会ったのは19歳の頃です。

神田の古本屋街で見つけた写真集『Alaska』で、広大な自然、最北の地に住むエスキモーの人々を見て、すっかり「シシュマレフ」村の虜になったのです。

星野道夫さんはすぐに村に向けて「滞在させてほしい」と手紙を出しましたが、大半は戻ってくるか、返事がないまま。

2年後にようやくシシュマレフ村の村長から「夏に来るのであれば、私の家に泊めてあげましょう」という返事が来ると、すぐにシシュマレフ村を目指しアラスカへと旅立ちました。

アラスカに渡った星野道夫さんは、現地の人のクジラ漁やアザラシ漁に着いていき、自然の様子を撮影するなどして、憧れていたシシュマレフに3ヶ月滞在することに成功しました。

大学卒業後の進路は動物写真家の田中光常氏のもとに弟子入りしますが、電話番やカメラの掃除だった為、2年で退職。

その後、アラスカ大学の入試を受け、不合格だったものの、学長に直談判して入学し、アラスカの地で生きる動物について学びました。

以降は動物写真家として本格的に活動を開始し、1986年には写真集「GRIZZLY アラスカの王者」で第3回アニマ賞を受賞、1990年には「Alaska 風のような物語」で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞しました。

現在も星野道夫さんの作品は人気!三浦春馬の役者人生を支えていた

1996年に亡くなった星野道夫さんですが、生前に撮影された7万点を超える迫力のある写真は、現在も遺族により定期的に写真展が開催されており、現在でも衰えない人気であります。

出版したエッセイ集は多くの人々の胸を打ち、現在も愛されています。

俳優の三浦春馬さんは『旅をする木』を感銘を受けた1冊の本として推しており、あるインタビューでは、

写真はもちろん、言葉もとても美しくて。自分の調子が悪かった時、彼の使う言葉に癒され元気づけられました。

辛い時に元気付けられていることを語っていました。

三浦春馬さんも、星野道夫さんの影響からアラスカに行ってみたいと思うようになっていたようです。

彼が住んで感じた、自然と共存して生きていくなかで生まれるインスピレーションを自分も体感したい。

きっと、すごく癒されるし、生きていく上で励みになる気がするんですよね。今はまだ叶っていませんが、いつか必ず行きたいなと思っています。

三浦春馬さんの死後、都会のジャングルで芸能界という汚い世界に苦しんだ彼の心情を考えると、この時のインタビューの中で語った自然との時間が本当に必要だったんだなと思います。

死因はヒグマの食害。「どうぶつ奇想天外」のロケ中にテントで襲撃。人間に餌付けされたことを知らされず

星野道夫さんは1996年8月8日にヒグマに襲撃されて死去されました。

TBS系列の動物バラエティ番組「どうぶつ奇想天外」の撮影でカムチャッカ半島を訪れていた際の出来事です。

出演した番組の放送テーマは「鮭とヒグマ」で、星野道夫さんの持ち込み企画でした。

収録で現地入りした時点で、撮影場所に不穏な動きがあったそうで、現地との報告・連絡の連携がうまくいっていれば防げたのでは?と言われています。

7月29日 ロシアの地方局の取材用ヘリが額に赤い傷があるヒグマに襲われ、窓を破られる。
8月1日 ロシアの環境保護団体のグループが撮影クルーたちがいる小屋の近くにテントを張るが、額に赤い傷があるヒグマに靴を持ち去られる。
8月1日 鮭観察タワーにも額に赤い傷があるヒグマが現れる。一晩中、タワーをよじ登ろうとしていた。
8月6日 再び星野道夫さんのテントの近くに額に赤い傷があるヒグマが現れ、ガイドがスプレーで撃退する。
8月8日 深夜4時頃、自然保護地区に星野道夫さんの悲鳴とヒグマの唸り声が響き渡る。森の中で食い荒らされた星野さんが発見される。

星野さんは再三に渡ってテントからの避難を勧められましたが、

「野生のヒグマは遡上する鮭の多いこの季節に人を襲わない」

との考えから、避難せずにテントに泊まり続けました。

8月8日、星野さんの悲鳴を聞いて小屋を飛び出したTBSクルーは、ヒグマに森の方に引きずられていく星野道夫さんを目撃。

ガイドに「テント!ベアー!ベアー!!」と助けを求めますが、ガイドが使えるのは熊よけのスプレーのみで、シャベルや鍋など打ち鳴らしますが、ヒグマは一度顔をあげただけで、星野さんを咥えたまま森に入りました。

無線を使って救護要請をおこない、到着したハンターによって加害熊は射殺も、星野道夫さんはヒグマに食べられたあとで、遺体は無惨なまでに食い散らかされていました。

一見、星野さんの身勝手で自業自得のように思えますが、実は周辺にいたヒグマはある事情で”普通の野生のヒグマ”とは違っていたのです。

ヒグマは地元テレビ局の関係者によって餌付けされ人味を覚えていた

1996年8月8日に星野さんの遺体は森の中でヒグマに喰い荒らされた姿で発見されました。

直近までのヒグマの動きが不穏ではありましたが、星野さんは「野生のヒグマは遡上する鮭の多いこの季節に人を襲わない」との考えからテントに泊まり続けました。

専門家である星野さんの知識は正しかったのですが、実は大事な情報が2点ほど星野さんに伝わっていなかったのです。

それは、

・星野さんを襲ったのは地元テレビ局の社長によって餌付けされていたヒグマで、人間のもたらす食糧の味を知っている個体であった。

・この年は鮭の遡上が遅れ気味で、食糧が不足していた。

↑これらの情報が星野さんに行き渡っていなかったことで、星野さんは避難をせず、ヒグマの食害に遭ってしまったのです。

星野道夫氏の友人らが抗議?テレビ局の隠蔽などを疑う

一般的にネット上で調べることができる事故の経緯は、TBSが作成した「遭難報告書」による内容です。(上記の内容も)

しかし、そもそもTBSが作成した「遭難報告書」の内容自体が”怪しい”との声も多くありました。

星野さんは自然の中で、用心深さを維持する為に、あえて護身用のナイフを持たないという保守的な方でした。

撮影に同行していたロシア人ガイドや、最初の襲撃時に一緒にいたアメリカ人写真家からはTBSの「遭難報告書」とは食い違う証言もあり、

”本当に星野道夫さんが自分の判断でテントに残り続けたのか?”

という疑いもあったのです。

星野さんの友人らはTBSに対して公開質問状を送りましたが、TBS側は報告書の一部間違いは認めたものの、”事故を予測することはできなかった”と回答

その後、遺族の意向から追加報告書の作成は見送ったとのことで、現在も事故の真相は迷宮入りしているのです。

ちなみに、現在もでネット上では事故の真相について様々な都市伝説が飛び交っています。

星野道夫の「最後の写真」と拡散された一枚はフェイク。テントを覗く写真

星野道夫さんが最後に出演した映像メディアは、遺族の意向で放送されました。

最後の姿を捉えた番組は「極東ロシアヒグマ王国~写真家・星野道夫氏をしのんで~」と題して放送されました。

星野道夫さんが亡くなった後、世間では「星野さんの個人カメラで最後に撮影した写真が気になる」と、死の直前までに撮影された写真の存在に関心が集まっていました。

そして、やがて”テントを覗くヒグマの写真”が、星野道夫さんが撮影した最後の一枚だとして、都市伝説のように語り継がれました。

ヒグマがテントを覗く写真は合成。襲撃時には悲鳴を上げ寝袋は切り裂かれていた

星野道夫さんの「最後の一枚」として流出してる写真があります。

最後にヒグマにテントを襲われたということで、仮にこの写真が本当なら、命よりも仕事が大事な勇者です。

一時期は、この写真が星野道夫さんが撮影した最後の写真だと拡散されましたが、すぐにフェイク写真であることが発してます。

8月8日の深夜4時頃、星野の悲鳴とヒグマのうなり声が暗闇のキャンプ場に響き渡った。小屋から出てきたTBSスタッフは「テント!ベアー!ベアー!」とガイドに叫んだ。

ガイドが懐中電灯で照らすとヒグマが星野を咥えて森へ引きずっていく姿が見えた。ガイドたちは大声をあげシャベルをガンガン叩いたが、ヒグマは一度頭をあげただけで、そのまま森へ消えていった。

テントはひしゃげていてポール(支柱)は折れ、星野の寝袋は切り裂かれていた。ガイドが無線で救助を要請し、ヘリコプターで到着した捜索隊は上空からヒグマを捜索し、発見すると射殺した。

しかし、星野道夫さんが襲われた時、

・星野さんが悲鳴を上げた

・星野さんの寝袋が切り裂かれていた

という点から、最期はカメラを構える余裕もなかったことが想像できます。

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